会社を休んでチベットへ行こう (14)

旅行4日目 ヤムドク湖

9時頃起床。部屋の中は意外に暖かい。あんなに頼りなげなスチームヒーターでもないよりは断然マシだったようだが、これだけに頼らず、昨夜、念のためにと、先端技術を結集して作ったというふれこみの股引(約2,000円)を履いて寝たことも奏効したようだ。この股引は、汗(水分)を吸収して発熱するのが売りらしい。

早速着替えを済ませ、朝食を食べに行こうとしたが、昨日の食事の内容を思い出すと、とても食欲が湧かない。かといって空腹のままでは、高山病予防のためにバファリンを服用することができない。今日は片道4時間の高山ドライブ。万全を期すべくバファリンを服用したいが、逆に胃に強い刺激を与えることで腹をこわすことも回避したい。悩んだ挙げ句、母から貰った節分豆を日本から持ってきたことを思い出し、一掴みして口に放り込んだ後にバファリンを飲んだ。水を3本携帯して出かけることにする。カータは、迷った末に身につけずに出た。

果たして9時20分頃、1台のバンがホテルの前に着いた。今度の車は、日本ではよく見かける一般的なものだが、あのランクルに慣れてしまったせいでかなり立派な高級車に思えた。事物の評価は相対的になされる。もっともチベットに到着したときの興奮が冷めた今では、あのランクルはチベットの中でも飛び抜けてボロかった気がする。

車に乗り込むと、助手席にハンジョウが、そして前から2列目にボラれた日本人カップルが並んで座っている。僕が3列目の窓側に腰をかけ、互いに簡単な自己紹介をしていると車は走り出した。彼らはともに東京の板橋から来た大学生ということだった。僕は、東京から来た会社員で、予めハンジョウに指示されていた通り、ハンジョウの日本語の先生の知り合いだと自己紹介した。理由は分からずじまいだが「先生の知り合い」であることが、ツアーに飛び入りで参加するための条件だったのだ。

すると、カップルのうちの男性のほうが「東京にお住まいなのに、京都にいる小林先生とはどうやって知り合ったんですか?」と鋭い質問をしてくる。不覚にも一瞬戸惑ってしまったが、こういう場合、言葉数が多いほど、突っ込まれるリスクが高まると考え、「僕、大阪出身なんです。」と分かるような分かんないような回答をすると、「あぁ、なるほど」と合点がいった顔をする。結局、彼の論理の飛躍に助けられ、この話題は打ち切られた。さすが僕の15倍もツアー代を支払う男だ、詰めが甘い(なんて、もしこの文章読んでも怒らないでね、オオヒガシさん)。

ホテルを出ると、空港から来た道をひたすら逆戻り。ラサ市を出てしばらく行くと、遠く山の麓に鮮やかな彩りをしたネタンと呼ばれる大仏が現れた。ちょうど空港からラサ市に向かう途中、ハッパが村名を紹介してくれた辺りである。ハッパは、にわかガイドだけあって紹介し漏れたのだろう。ハンジョウに誘われるままそこでいったん車を降り、あまり気乗りはしなかったが、みんなで記念撮影をした。

再び車に乗り込むと、再びひたすら空港方面に逆戻り。時折ハンジョウが鼻歌を歌う以外は、車内で言葉を発する者は誰もいない。1時間ほどして、車は曲水大橋に差し掛かった。橋を渡った先はT字路になっており、左手が空港方面だが、車は、その舗装された道を離れて右折した。途端に車体が激しく上下に揺れ出す。こちらの道は完全無舗装なのだ。しかも、道幅がそれほど広くない中、道路の片側には道路拡張工事用に大量の石が延々と積み上げられているため、対向車が来る都度、すれ違うのに手間取ってなかなか前に進まない。片道に4時間も要するのは、距離ではなく道路事情が原因なのだった。

T字路を右折してから、景色は一変した。どこを見ても砂にまみれている。街道沿いに点在する人家、「I LOVE YOU」と英語で落書きされている家の塀、唯一の喫茶店等々、砂に覆い尽くされたこんな場所にも人の生活が営まれていることを知り、安部公房の『砂の女』を内陸版で書くときには、こんな景色になるんだろうなと思う。

こうした景色を流しながら、砂埃をあげて道なりに進むと、いつの間にか生活圏を抜け出ていた。崖崩れがいつ起きてもおかしくないような岩壁の間を突き進み、山の尾根に取りついたところで、車は坂道を登り始めた。もはや周りには無機物しかない。あるのは、砂と空と太陽だけ。突然、カップルの女性の方が声を上げた。「ハンジョウさん!エベレスト!」彼女が指を差す先を見てみると、なるほど確かに雪を頂いた山があり、エベレストの方角としても正しい。しかしハンジョウは、「全然違います」と言下に否定した。ちょっとひどい。

反省したわけではないだろうが、ハンジョウは、しばらくすると、おもむろにヤクのクッキーを取り出し、カップルに振る舞い始めた。しかし、彼らは、初めてこれを目にするせいか、なかなか口にしようとしない。これを見たハンジョウは、僕に「これはとてもおいしいですよ。ね?」と同意を求めてきた。そこで、「結構いけますよ」と首を縦に振って同調すると、ハンジョウが、「あなたにもあげます」と言って、僕にもくれた。「えっ、いいんですか?」と喜んだふりをして受け取った後、最後尾の3列目という地の利を生かして、そのままズボンのポケットに投入。そうとは気づかず安心したカップルは、ようやくクッキーを食べ始めたが、どうやら彼らの口にも合わなかったようだ。

山を少し上がったところで1度目の休憩。この時点ではまだ水をあまり飲んでいなかったのだが、念のために、隠れる場所がないので少し離れたところまで行って、小用を足しておく。そして、そこからさらに上がって行くと、隣の尾根との間にある谷間は一層深く急峻になってくる。その渓谷にある台地の上には、城壁のような遺跡が見えた。道の脇にガードレールの類は一切なく、運転を少しでも誤れば、下に真っ逆さまに墜ちた後、もっと高い所に昇華していくことになる。車は時速20~30キロ程度で走行しているためにそれほど危険は感じないが、対向車とすれ違うときや、U字カーブで左手の山の斜面から右手の谷へ流れ落ちる水が氷結してしまっている上を走るときには、さすがに緊張した。

かなり上に登った所で2度目の休憩を取った。既に標高は4,000メートルを超えている。高度適応の間もなく、車で一気に登るため、時折飲む水も効果なく、風邪を引いたように頭がずっとガンガンする。車外に出て見ると、砂で覆い尽くされた山腹にヤクの群れがいた。しかし、さもありなんと、あまり感動もない。「この山壁の上から写真を撮るといいですよ」とハンジョウが教えてくれたが、あまり体を動かして高山病になったらシャレにならんと思い、その場で写真を1枚撮影するにとどめ、再度少し離れた所で小用を足し、車に戻って出発した。

間もなく頂上が見えてきた。右手には谷を隔てた向こうに山の尾根が連綿と連なっているのが見え、草津から万座に抜ける道にも似たような景色があったことを思い出す。そんな感慨に耽っていると、頂上を目の前にして、車が突如停止した。今まで車窓から山ばかり見ていたので気づかなかったが、前方に、車が数台立ち往生している。標高5,000メートルの道に、渋滞を生じさせるほどの交通量があるとは到底考えられない。立ち往生の末、期せずして休憩を取ることになったため、様子を見に行くと、どうやら先頭のバスが故障で動けなくなってしまったことが渋滞の原因のようである。バスは陸路でチベットからネパールに向かう模様。中には、人と荷物が、文字通りすし詰めの状態になっている。ネパールに行くなら、空路にしようと決心する。

15分ほど経つとようやく車が流れ出した。対向のバスを先に行かせてから、我々の車も出発し、ほどなく頂上のカマラ峠に到着。眼前に絵画のような景色が現れた。眼下には、ヤムドク湖が横たわる。その湖面が凍っていることは後で知ったのだが、氷の白濁は、あたかも波打っているかと見紛うほどだ。その左側手前には朽ち果てた建物が佇む。他方、湖を越えたはるか向こうには、ノジン・カンツァンという7,192メートルの山が、世界の最果てを示す地標のように、聳え立っている。ノジン・カンツァンとその連峰は、近場の山と異なり、雪に覆われて真っ白だ。その色の違いが格の違いを感じさせるようである。

それにしても、湖といい、雪山といい、視界の中に「水」があるだけで、風景の印象がここまで変わるとは思いもしなかった。ヤムドク湖はまるで砂漠の中のオアシスだ。「聖なる湖」と崇められる理由がよく分かる。後で繋ぎ合わせればパノラマ写真となるように湖全体を数枚に分けて撮影し、しばらく景色を堪能した後、車に乗り込んだ。次はこの峠を下って湖のほとりに行くのだ。

砂埃をあげながら山道を下っていくと、右手向こうの山麓に位置する湖畔に、扇状に展開する小さな集落が見えてきた。昔、秦では、その行政単位について、5軒を里、5里を邑と設定していたそうだが、この集落は1邑ほどの規模である。山道は途中で分岐点に差し掛かる。我々は進路を左に取り、湖へと降りて行くと、傍まで来てはじめて、湖面が向こう岸まで渡れるほどに一面氷で覆われていることを知った。今は雲一点ない晴天だが、夜の冷え込みで凍結してしまったようだ。ただ、湖岸の一部に氷が割れている箇所があり、放し飼いにされているヤクが1頭、そこで水を飲んでいる。少し離れたところでは、別の1頭が、当て所もなくのそのそと歩いている。何とものんびりとした風景である。

ぶらぶらと歩きながらヤクを撮っていると、ハンジョウと運転手(結局、名前は不明)が湖上に移り、スケートを始めた。それに日本人カップルが続く。僕は、しばらくの間、岸辺から彼らの様子を眺め、氷が割れないことを確認し、その上で慎重に湖上へ移った。僕も彼らに加わり、湖のだだっ広い氷の上で、スケートや、氷の破片を使ったサッカーの真似事に興じた。いつの間にかここの住人らしきチベット人の子供達も湖上にやってきて、木片の上にしゃがみ、2本の尖った鉄棒を氷に突き立てては漕いで、氷上をスイスイと滑って遊んでいる。これを見たハンジョウは、彼らに頼み込んでそり道具一式を借り受け、彼もまた子供のようにはしゃぎながら、滑り出した。その後、ハンジョウに勧められるまま僕もやってみたのだが、体が固いせいで、小さな木片に尻と両足を収めるのに難儀し、かなり苦痛。また、滑り出しが難しく、滑り出した後も方向の舵取りが難しいため、とりあえず遮二無二滑ると、そりをハンジョウに返してしまった。1時間ほどそうして時を過ごすと、帰る時間になった。車から離れた小屋の脇で小用を足して乗車。帰りはカマラ峠で休むこともなく、来た道をただひたすら戻って行った。