会社を休んでチベットへ行こう (9)

旅行3日目 セラ寺

セラ寺はラサの中心地から北に8キロほどの所にあるセラ・ウツェ山にある寺で、参道には僧侶や巡礼者等が犇いており、観光客・商売人という違いはあるが、京都の清水坂のような賑やかさである。そこを温和な顔をしたラッパがクラクションを鳴らしまくりながら、駆け上がっていく。

車を降りた我々は、チェ・タツァンという学堂に入った。大きな広間には、何列にもわたって赤い敷物が敷かれた長椅子が置かれており、ポタラ宮の僧侶とは違ってここの僧侶は毎朝・毎昼・毎夕、この場所でお経を読むのだそうだ。

入口から遠く離れた場所に小ぢんまりとした部屋があり、この中に数多の巡礼者が列をなして、順番に主尊にお参りしている。部屋の中を照らす蝋燭の火で影が不規則に揺らめく中、主尊が祭られている小さなお堂の脇で複数の僧侶が大声で読経しており、合わせて巡礼者もブツブツと読経しているので、聴覚・視覚がともに休むことなく刺激される。

こうした中、ハンジョウが筆頭と思しき僧侶に頼み込んでくれたおかげで、待つことなくお参りすることができた。主尊が祭られている小さなお堂に刳り抜くように作られている穴の中に、お辞儀をする格好で頭を突っ込むのがお参りの形式だ。ただし、穴の位置が腰の高さ程度なので、主尊を直接見ることはできない仕掛けになっている。先のダライ・ラマの玉座でもそうだったが、ここではお参りに頭を使うのが風習らしい。

お参りを済ませると、筆頭の僧侶もハンジョウも、お堂の中を見てみろと言う。そこで腰をかがめて下から見上げるように見てみると、何と主尊とは、歯をむき出しにした馬だった。インドの神シュリデヴィが乗っていた馬に大変似ているので問うてみたが、別ものらしい。部屋から出ようとすると、ここでもカータを貰った。都合2本の白い布を首に巻きながら、拝観を続ける。

高僧の玉座等を見て、チェ・タツァンを出ると、山のはるか上の方に建物が見えた。ハンジョウに尋ねると、現在は使用されていないのだが、以前はそこで修行が行われていたとのこと。夏場はきれいだから、是非一緒に行きましょうと言うハンジョウに適当に相槌を打ち、次に印経院と呼ばれる建屋に入った。

印経院とは、要するに、お「経」を「印」刷する所である。印刷の方法は極めて原始的なもので、木に文字を彫り、これに墨を塗って、紙に写すのだ。我々が建屋に入ったときは、ちょうどその彫り士らしき人が、入口からすぐ右手の場所にある作業場で、箒で木屑を掃いていたのだが、窓がなく密室のような空間のせいで空気の循環がないため、埃に大変苛まれた。壁には、本棚に並ぶ本のような体で、ぎっしりとお経が彫られた木が並べられている。ふと、渋谷に200種類くらいの焼酎が置いてあるバーがあって、焼酎を頼むと種類の多さを感じさせない速さで品が出てくるのを思い出し、ここの木経(造語)の管理はどうやっているのだろう、順番をこっそり入れ替えたらどうなるのだろう、などとくだらないことを考える。

次の建屋では、入口の正面に、横に長い暖炉が置いてあり、その奥には曼荼羅が、床と水平なケースに入って飾ってある。曼荼羅の脇には、昨夜ハンジョウの家で見たダライ・ラマとベンジン・ラマの顔写真が置いてある。総じて何の変哲もないのだが、ハンジョウが、その曼荼羅が色の付いた砂で描かれていることを教えてくれ、思わず驚嘆の声を上げてしまった。よく見ると、砂で描かれているため、凹凸があって、非常に立体感のある絵に仕上がっている。曼荼羅を詳細かつ熱心に見ている間、隣で、ハンジョウが続けて、暖炉はダライ・ラマの暖炉ですなどと説明している。それはそれで価値があるのだろうが、曼荼羅にすっかり気が行ってしまった僕としては、もはやダライ・ラマなぞはどうでもいい。ハンジョウは、明らかに説明の順番を間違えている。最後に「地震が起きたら砂絵は台無しですね」としょうもない感想を述べたのだが、ハンジョウは地震というものを理解してくれなかった。チベットとはそういう地質なのだろう。

そこを出た我々は、ランクルで駆け上がってきた参道を、逆に歩いて戻って行った。全体の構造としては、参道の両側に壁が続いており、その所々に入口があって、そこから壁の向こう側に抜けると、そこにはそれぞれちょっとした広場やら、僧侶の住居らしき朽ち果てたような建物やら、学堂やらがある。内側が広場か住居の場合には、大抵マニ車が並べて置いてあり、1回転させると1回お経を読んだのと同じ効用があるというので、いちいちそれを律儀に回しておいた。

その後、ツォクチェンという集会場に来た。集会場といっても、周りを建物と壁に囲まれた中庭のようなところである。奥には沢山のカータを乗せた大きな玉座が、屋根の下に置かれており、この場所で、セラ寺、ポタラ宮、デプン寺、大昭寺の僧侶が一堂に会するのだそうだ。集会場と呼ばれる所以はここにある。

集会場で撮影をしていると、物乞いの子供がやって来た。どれほど避けても、ずっと執拗に付き纏ってくる。そのうち、その子が兄弟を連れてきて、一緒になって纏わり付いてきたので、ハンジョウと二人でそそくさと、集会場の奥に据え付けられた大きな木製の扉を開けて中に入った。もちろん目的地だから入ったのであって、たまたまではない。

内側は、大変薄暗い廊下で、両側には、目を凝らせばようやく見える仏体が置いてあり、その先は大きな講堂になっている。講堂の中には、チェ・タツァンと同様、何列にもわたって長椅子が並べられており、その上に畳まれている赤い布は、どういうわけか僧侶の法衣の形をしていた。天井や壁等、全体の色調は赤である。この中では、やはり毎朝・毎昼・毎夕読経が行われるらしい。壁に沿って大きな玉座が2つ置いてあり、1つはダライ・ラマのもの、もう1つは高僧のものである。その他には特段見るべきものはない。

そのうち、ハンジョウが何かを説明したと思うと、おもむろに腰を屈めて書棚の下を歩き出した。書棚は、内部に経典を収めたもので、4隅に長さ1メートル強の脚が付いているため、下部に空間が出来るわけだが、そうした書棚が壁際に沿って敷き詰められている。その下で、ハンジョウがネズミの真似事をするのだ。彼によると、どうやら何かのおまじないのようだが、正直よく分からなかった。マニ車を一回転すれば1回読経したのと同じ効果があることと同様、おそらく書棚を1つくぐれば、その中にあるお経を全部読経したのと同じ効果があるのだろうと思い、ハンジョウの後ろをくっ付いて、所々で頭をぶつけながら、僕も中腰で歩き出した。他を見ても、そんな格好で歩いている者は、子供以外に見受けられなかったが、何かの話のネタにはなるだろうと、苦しいのを我慢して最後まで歩き切った。おかげでこの旅行記にその顛末を書くことができる次第である。