会社を休んでチベットへ行こう (8)

旅行3日目 ポタラ宮 (その2)

休憩室を出て次なる第4層にやって来た我々は、9世霊塔と8世霊塔の部屋を立て続けに見た後、この宮殿の中心とされている聖観音堂(パクパ・ラカン)に入った。中心的存在であるためか、第4層からさらに階段をちょっと上がった所に入口があり、聖観音堂自体が全体で、弥生時代の高床式建築のようである。中に入ると8畳程の部屋があり、周囲を例のごとく仏体が占めているのだが、今までの部屋とは異なり、この中にある仏体は概して大型で、いかにもこの場所に陳列されている仏体はどれも大物であろうことが、宗教に無縁の僕にもよく伝わってくる。

入口を入ると、左から時計回りに巡回するのがこの地の慣わしである。これに従って順番に見ていくと、ハンジョウが、仏の名前を教えてくれた。おかげで、今の僕には、ある程度仏を見分けることができる。主だった見分けのコツとは、まず例の法王洞にいたソンツェン・ガムポの場合は、頭の上に顔が生えているので容易に分かる。高僧ツォンカポの場合は、顔が細くて大きく、気品がある。その両隣には、常に弟子のセトチェとゲトチェが控えている。髪の毛が紫色であれば、弥勒菩薩だ。馬に跨り、雷太鼓を頭に巻いていれば、上述のシュリデヴィ。手のひらに目があれば、ドルマ。千手観音は、見たまんま。受験勉強を通じて培った傾向と対策によるこの覚えのよさに、さすがのハンジョウも舌を巻いていた。

余談だが、チベットの宗教(=仏教)は極めて現実主義的である。ソンツェン・ガムポやツォンカポの例に見られるように、実在した生身の人間が修行次第で仏になり得るのだ。こうした事象を許す主因は、彼らの宗教には、苛烈な自然の中を生きていくにあたって、救いを求めるという要素が非常に強く、したがってその崇拝の対象が偶像であることを必ずしも求めない点にあるように思う。

この点、欧米、というか元を正せば欧州の宗教というものは、抽象的・理想主義的である。日常の生活面では、むしろ欧米人の方がはるかに合理的であることに照らすと、彼らの宗教は、その精神の平衡を保つため、合理性から来る良心の呵責を癒すために存在しているような気にもなる。懺悔という行為に見られるように、同じ表現でありながら、欧州の場合「救いを求める」意味が陰鬱な感じがするのは、そのせいか。つまり、その崇拝の対象は、同じく合理的精神を持つ生身の人間であっては役不足であり、ゆえに、想像上の非合理的な客体の設定が必要となる。

以上はもちろん短絡的な思考で、宗教学者等からは一顧もされない筈だが、チベットの宗教が、生身の人間に対する崇拝に抵抗感を持たないのは特筆すべき事実だと思う。そういえば日本でも豊臣秀吉は豊国大明神に、徳川家康は東照大権現になり果てた。

かくして聖観音堂の巡回を終えると、その部屋に居た僧侶が、自分とハンジョウの首にカータを巻いてくれた。その後、我々は、第4層の部屋を順序良く回って行った。各部屋には、いくつものダライ・ラマの玉座が置いてあり、そのいちいちにハンジョウは頭をくっ付けてお祈りをしている。祈りが終わると、どの玉座が何世の玉座なのかを都度説明してくれるのだが、その時点の自分としては、もはや食傷気味だった。

そんな中、この第4層で興味を惹かれた部屋が、上述の聖観音堂の他に2つある。1つは時輪殿の曼荼羅として『地球の歩き方』に写真が掲載されていた当の曼荼羅が置いてあった部屋。その曼荼羅の立派さもさることながら、面白かったのはその周りにあった小さな人形である。丁度グリコのおまけにありそうな数センチ程度の玩具のような人形が、幾つも無造作に放置されているのだが、そのどれもが、手足をもがれていたり、腹部が割れていたりして、どう見ても壊れている。実はハンジョウによると、これらの人形は現世で悪事を働いたものが死後に成り果てる姿を模ったものだそうだ。もう1つは、別の部屋に陳列されていた写経である。一見何の変哲も無いのだが、よく見ると字が金で出来ていた。

これらの部屋を見終えると、回廊に居た係りの者に10元を支払って、屋上に上がった。ここでは諸々のダライ・ラマの霊塔はそっちのけで、そこから見える景色を堪能した。屋上から先ず目に入るのは、眼下に広がるポタラ宮広場である。これは中国がチベットを統治するようになって以後に造られたらしい。中国人はとにかく広場が好きなのだそうだ。その広場から手前に視線を移すと、ポタラ宮の門内に幾つもの古めかしい廃墟がある。以前は僧侶が住んでいたらしいのだが、観光客の喧騒で住みにくくなった今では、誰も住んでいないらしい。ポタラ宮の僧侶は概して若いらしく、それが理由なのか読経は毎朝行われるわけではなく、用がある日に近辺から出勤して来るとのことだった。他方、現在は、中国の公安警察がポタラ宮の地下に始終滞在しているとのこと。不幸にも、過去に経典等が内部の僧侶の手で秘密裡に外部に売られていた時期があったらしく、公安警察の常駐はこうした不祥事を防ぐための措置とのこと。

屋外は撮影が可能であったため、しばらくこれに時間を費やした後、次に向かいに位置するダライ・ラマの居室へと向かった。 屋上から降りて第4層の出口を通り抜けると、そこにはちょっとしたテラスのようなスペースがある。ダライ・ラマの居室は、その向かいだ。

居室に入る前に、小用を足しにトイレに行った。トイレには3つの個室があり、それぞれが10畳ほどの広さで、個室というよりはもはや部屋である。いずれの間にも敷居はあるが扉がない。その「部屋」の真ん中に、和式のいわゆる「ぼっとん便所」が、ぽつねんと取り残されたように設置されている。便所に向かって立つと、穴から第1層の地面が見える。つまり4階から1階に向けて放水するのだ。そういえばこの前、日本の居酒屋でトイレにはまった奴がいたが、ここではそういう輩は間違いなくここの僧侶の世話になることとなるな、などと考える。(トイレの詳細は下の図を参照)

ダライ・ラマの居室に入ると、正面に、翼を広げたような格好で、敷物を敷いた長椅子が置いてある。ここに右・左それぞれ10人ほどの僧侶が座り、お経を唱えるのだそうだ。敷物を手に触れることはできなかったが、ハンジョウによると、相当柔らかく、暖かいらしい。

この長椅子を過ぎて直進し、ダライ・ラマの寝室(壁に付随して設置されているベッドは、大変小さい)やら執務室やらを順番に見て回った。全体的に閑静な旧宅といった佇まいだが、最後に出てくる古くて質素な部屋、そこはダライ・ラマが巡礼に来る信者を迎える部屋なのだが、多数の信者が一挙に入ると床が抜けるのではないかと心配させるほどの鄙びた部屋であるにもかかわらず、ここだけは、法王洞に似た優しく厳然とした雰囲気があり、なぜか「ようやく到達したっ」というような名状しがたい感じを受けた。

居室を出てからは、ひたすら降下。並び建つ棟の間を縫って作られた階段を行くので、あたかも街中を歩いているように錯覚してしまう。そのうち、ようやくポタラ宮広場を見渡せる位置までやって来ると、ハンジョウが「サクラ」の歌を歌ってくれた。もちろん森山直太朗のほうではなく、民謡の「サクラ」である。歌い終わると、例のヤクの乳で作ったクッキーをくれた。食べる素振りをして、ズボンのポケットにしまい、お返しに「ふるさと」を歌ってやる。その後は歌合戦である。こちらが続けて「君が代」を歌いあげ、チベットの国歌を頼んで歌ってもらい、さらに民謡を歌ってもらい、最後にホテルのレストランで流れていた「さよ~な~ら~♪」の歌を歌ってもらった。民謡は、ハンジョウが故郷を離れてラサに上京するときに乗り物の中で聴いていた曲だということで、歌い終わった後は感慨に耽っていた。なお「さよ~な~ら~♪」の歌は、実は流行歌とのこと。ホテルの者が海外からの来訪者を労わって流したのではなかったことが判明した。

下まで降りてきた後、以前は僧侶が住んでいたという古めかしい廃墟を行き過ぎ、やっとの思いで宮外に出た。ちょうどポタラ宮に向かって右側、昨日英国夫婦と出会った場所に出てくる仕組みだ。早速ラッパが待つ車に乗り、次の目的地セラ寺に向かった。