会社を休んでチベットへ行こう (12)

旅行3日目 バルコル

ジョカンの建物を出ると、ナンコルと呼ばれる建物の周りを巡って作られた通路を歩いた。通路の幅は全体で車道ほどの広さで、その脇には歩道ほどの幅があり、両者の間を延々と施設されたマニ車が区切っている。お決まりのように、これをぐるぐる回しながら歩いて行くと、たまに、歩道幅の狭い通路の中で、五体投地をやりながら前に進んでいる人を見かける。這い上がっては這い蹲りというのを何度も繰り返しながら遅々として進まず、こう言ってはなんだが、まるでゾンビのようだ。

1周してジョカンを出た我々は、続いて、ジョカンの敷地全体を囲むように作られた道路に来た。これがバルコルと呼ばれる巨大な市場である。その喧騒感は、駐車場からジョカンまでのものと勝るとも劣らない。ここでもやはり衣類や陶芸品を売っている店が目立つが、先ほどの露店とは違い、料理を売っている店はあまりなかった。

広いところでは片側2車線の道路を敷設できそうなほどの幅広な道には、人が溢れており、所々で緑色の服を着た公安警察官が、やることもなく仲間同士でしゃべりこんでいる。この人ごみで溢れかえっている中を、2人のおばさんが、地面に大きく弧を描くように巨大な箒を振り回して掃除をする。買い物に興味を持てない僕は、冷やかしでいくつかの陶器を見てみたが、主に象やトラの形をした置物が多かった印象がある。これらを見ていると、大抵ハンジョウが、こうした店にあるものはろくでもない品ばかりだから行きましょう、と言う。

そんなハンジョウが、自ら率先して「ここは立派なお店です」と言って紹介してくれた店があった。1軒目は絵画を売る店。入口を入ってすぐの右脇に、チベット人の少女を鉛筆でデッサンした絵が幾つも飾られているのだが、素人目にもどれも大変リアルで上手かった。例えば、髪が風に靡いている絵があると、本当に絵の中で風が吹いているのかしら、と思ってしまうほどである。さらに奥に進むと広間のようなところに出て、その右手にはトルコ石で作られたブレスレットやら置物が陳列されており、正面から左の壁にかけては、所狭しと曼荼羅の絵が壁を埋め尽くして掲げられている。曼荼羅の絵は、描写の対象は象であったり、人であったり、馬であったりと様々なのだが、大体どれも同じような構図である。すなわち、複数の象やら何やらが下部で円形の床を支え、雄大な自然を背景に、その上に仏さまやそれに相当する偶像が大きく描かれているといったものだ。ハンジョウが、これらの曼荼羅は病気をした人に見舞いとしてあげると大変効果があるので、日本に持って帰ったらどうかという。しかし、有難がられないことは必至のため、へぇ~と頷いたものの、当然購入はしなかった。

突然ハンジョウが「ところで、あなたは帰りのチケットを持ってますか」と場違いに聞いて来た。広州から成田までのは持っているが、中国国内線のチケットはすべて現地渡しの予定だったので「持ってません」と答えると、「おかしいですねぇ」と言う。何ら問題がなければそもそもこんなところでそんな質問をしない筈なので、彼自身何かしら気になっていることでもあったのだろう。「ちょっと待っててください、会社に電話して来ます」と言って、ハンジョウが立ち去り、僕は一人で曼荼羅を見続けた。ふと2階に目をやると、欄干にいくつものペルシャ絨毯が掛かっている。そのとき、店内に電気が点けられ、店員がやって来た。ひょっとしてハンジョウと店はグルで、勧誘のためにオレを独りにしたのか?という疑念が一瞬頭をよぎったが、しかし店員は、商品の案内をしたそうにしながら、言葉が通じないので、ただ漫然と不気味な笑みを浮かべているだけである。

そうこうするうちに、ハンジョウが戻ってきて、「問題ありませんでした」と言う。加えて「明日一緒にヤムドク湖を見に行かないか」と誘われた。ヤムドク湖とは、ラサ市の南方約100キロほどに位置する聖なる湖で、チベット(正しくは、中国なのかもしれないが)とブータンの間の国境と、ラサ市との中間に位置する。ヤムドクとは、「高原牧場にあるトルコ石の湖」という意味だそうだ。ハンジョウによると、車で片道4時間の行程なのだが、極めて美しく、是非お勧めするとのこと。何でも、ちょうど日本から来ている2人組がヤムドク湖にツアーで行くらしく、ハンジョウがそのガイドとして随行するので、お誘いに与ることができたようだ。

「その人たちは、一人1,500元(=22,500円)を払いますが、あなたは100元(=1,500円)でいいですよ。よければ、会社にこれから交渉してみましょうか」というので、その格安感を前に断る理由などなく快諾した。そうかぁ、ガイドと仲良くするといいことがあると旅行会社の人が言っていたのはこういうことかぁと、合点がいった。

ハンジョウ推奨の店2軒目は三叉路の脇に立っており、1軒目よりも間口が広い。こちらは陶芸を売る店。中に入ると電気が点けられ、商いの家族一同が見守る中をハンジョウと一緒に見て回る。巨大な壺の他、どういうわけか三葉虫やアンモナイトの化石が売られているが、本物かどうかの見分けもつかないし、さしたる興味もないので、ここでも何も購入しなかった。イタリアのベネチアに行ったとき、本場のベネチアングラスを買おうと意気込んだものの、結局どれも胡散臭く思えて買えなかったことを思い出した。陶芸の類に素人は手を出すべきではない。

その店を出ると、道を隔てた向かいに「Makye Ame Restaurant」というレストランがあるのだが、ハンジョウはその店を指差し、有名店なのだが、この期間は休業していることを教えてくれた。

バルコルを出る間際あたりで、ここでもトイレに行った。高山病予防にと、ズボンのポケットにしまってあるペットボトルでちょくちょく水を飲むため、ハンジョウの2倍の頻度で用を足しに行く。きっと「よくトイレに行く日本人だなぁ」と思われたはずだ。路地にあるトイレは相当汚く、小の方は水浸しで、大の方は水が流されないまま、便が放置されている。足して2で割ると丁度いいのだが、などとくだらないことを考える。どっちで小用を足そうか迷った挙句、靴が汚れるのを嫌い、大の方を使った。人によって判断が分かれるところだ。これをネタに、面白い心理ゲームを作れるかもしれない。

トイレから出ると、ハンジョウがトイレの前に座っている人に金を渡していた。どうやら入場料らしい。ハンジョウは僕からトイレ代を受け取ろうとはせず、恐縮してしまったが、そもそもトイレの水も流さないような管理人に、何の金を払う必要があるのだろう。そういえばセラ寺のレストランの裏庭にあるトイレでも、2人組の男がたむろしていた。彼らもきっと入場料をもらいたかったのに違いない。僕の不払いを咎めなかったのは、言葉が通じないから諦めたのか、水洗ですらないトイレなので支払いは任意だったのか。

バルコルを出ても露店が引き続き立ち並ぶ。そのうちの1つで、昨日ハンジョウの兄の部屋で見たラサ市の全体写真を見つけた。やはりここでも何も買わずにそのまま歩を進め、農作物を載せて斜めに立つ荷台をやり過ごし、駐車場まで戻ると、車はあるがラッパがいない。しばらく待っても帰って来ない。そこで、ハンジョウが捜索に出かけている間、その辺の景色を何気なくぼぉーっと見ていた。駐車場からジョカンに向かって右手に「Barkhor Cafe」という西洋風の喫茶がある。背に立つビルの上には、割と洒落たレストランがあり、壁には「Tibetan Western Chinese」と書いてある。その他にも目を凝らすと実は西洋料理の店がかなりあることに気付く。欧米人を対象にした店は意外に多い。10分ほど経ってからか、ようやくラッパが苦笑しながら戻ってきた。3人は早速車に乗り込みホテルに戻った。